50代女性の熟年離婚のその後を綴ります。
2012年に熟年離婚をしたのですが、女がひとりで生きていくのは想像どおり大変です。
私はフリーランスでwebの仕事をしていましたが、当然ながら仕事には波があります。
平常心で毎日を過ごすことが難しく眠れない日々を送っていました。
古い木造の家は寒すぎる
熟年離婚4年目。
家を追い出されてから1年が経ちました。
古い一軒家に越してきたのが5月のこと。
暑い夏を過ごした後、秋になり冬になりました。
冬の寒さは正直つらいものでした。
東京都内なのにベランダには氷がはります。
まったく日が入らないので昼間でも電気をつけなければならない部屋は、暖房をかけてもかけても暖まりません。
駅からもそうとう遠く、バスは11時ごろには終わっているため息子は自転車で駅まで通ってました。
暖房費のことを考えると引っ越しすることも考えだしました。
思い切って引っ越しすることに
暖房費が月3万円ほどかかるようになって、引っ越しを本格的に考えました。
20年住んでいたマンションから引っ越しをしたときに、ずいぶん要らないものを捨ててきましたがまだまだ納戸にはたくさん荷物が残っていました。
次に見つけたのは賃貸マンション。
暖かくて静かな場所です。
でも、収納が少なくまたかなりの不用品を処分しなければなりませんでした。
2回の引っ越しで本当に身軽になって、捨てるたびにどんどん気持ちが軽くなる。
引っ越しにかかる費用は情けないけど親に出してもらいました。
結婚している時はほとんど親に泣きついたことはありません。
親元にいるときももちろん親に甘えた記憶はありませんでした。
高校、短大の学費を出してもらっていたので、申し訳ないという気持ちだったんです。
だけど、もう意地を張ることもなく貯金もぜんぜんなかったので甘えてしまいました。
新しい場所へ引っ越したが仕事が減ってきた
大量の荷物を処分して、マンションに引っ越してきました。
嘘みたいに暖かいお部屋での生活はぬるま湯に入っているようです。
あの厳しい寒さから開放されてこれからどんどん楽になるはずでした。
ところが・・
仕事がどんどん減ってきました。
今までがラッキーだったんです。
当時はアメブロが大ブームでした。
独学でアメブロカスタマイズを勉強して格安でお客さんに提供する。
そんなことを必死でやっていました。
でも、ブームはいつまでも続くわけではありません。
売上が激減した中、今度は娘が体調を崩し会社を辞めることに。
家賃と駐車場代で12万ちょっと。
これを子どもたちが負担してくれていたので
娘の負担分が無くなったのが困りました。
でも、そのときはまだ息子がいたので
家賃として月7万入れてくれていたのがとても助かりました。
熟年離婚したことを後悔した
悪いことは重なるようで
今度は私が五十肩になり
夜眠れない日が続くようになりました。
夜眠れないと不安が襲いかかってきます。
どうしたらこの不安から逃れられるのか・・・
熟年離婚したこともすごく後悔したりもしました。
あんな夫でも一緒に暮らしていたらこんなに不安になることもなかったのに・・
なんて思ったことも何度もありました。
今思うと、当時は息子がいてくれたのに
あんなに不安だったのはやはり私の仕事がうまくいかなかったからだと思います。
女がひとりでしかも自営業でやっていく・・・
という厳しさを痛感した時期でした。
本当に熟年離婚してよかったのだろうか?
本当に熟年離婚してよかったのだろうか?
自問自答の日々が続きます。
でもいくら考えても答えは出ないし、すでに離婚してしまっているのだから過去には戻れません。
眠れない日々が続き毎日どんよりと過ごしていました。
とにかくご飯を食べていけるというだけでも幸せなこと・・・
と自分で自分を納得させながらの暮らし。
財産はもらえなかったけど子どもたちは私の味方だし、ふたりともとても良い子なのが救いです。
特に息子は仕事をしだしてから才能の頭角を表し、とても頼もしい存在になりました。
しかしその1年後に息子は独立してますます窮地に陥ることになります。
自分ができることをひたすら考える
それでも外に勤めに行くという選択はしませんでした。
ギリギリまでなんとか自分の力でやってみたい!
外に働きに行ってもお給料はたかがしれている!
だからとにかく自分ができることをひたすら考えていました。
私ができることは・・
- パソコンが得意
- webの知識が多少ある
- 人を呼べる場所がある(家のこと)
これがうまく回りだせばきっと収入になるはず!
まずはブログを書いてみよう。
と思い立って下手な文章ながらとにかくパソコンに向き合うことになりました。
絶対に自分ひとりの力で成果を出す!
という決意は人一倍強かったと思います。
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